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「おはよう、フレア」
壁一面のコンピューターの光が、暖かくフレアを迎え入れる。放射能の少ない日中を選んでしか、生身の人間であるフレアはビッグマザーをいたわれない。そんなもどかしい思いをフレアはずっと抱き続けていた。
「おはようございます、ビッグマザー陛下」
フレアはうやうやしく礼を施す。いつになくビッグマザーは活発に点滅し、物思いに耽っているかのようであった。
「お変わりありませんでしょうか」
「私は何も。フレア、ありがとう」
「もったいないお言葉・・・」
「良いのです、フレア。ただちょっと、目がかすむのです」
「はい、お任せください」
フレアはビッグマザーのコントロールパネルを開くと、リソースを表示するステータス画面を眺めながら言った。
「各カメラに繋がる伝達回路も、認識プログラムも正常に稼動しているようです」
「そうですか・・・」
フレアには分かっていた。ビッグマザーの機能の根幹を支えるデータ構造が、日に日に衰えていっていることを。それでも、ビッグマザーは人間のような精神構造を持たないコンピューターであるにもかかわらず、いまだクリアな人格を有し、かつてと変わらぬ暖かいまなざしで社会を、地球を、太陽を見詰め続けていることが驚きであった。
「普通の人工知能であれば、とっくに機能を停止しているか、狂っている」
フレアはそう思う。しかし何故か、ビッグマザーはときどき機能的に不調を来たす程度で、大々的な障害を起こしたことはなかった。陛下は、どこからか湧いてくる気力で保っている。これも、長く社会を統治したという自負がもたらす奇跡なのだろうか。
失われ、壊れていくデータ構造や基本的なコードを正常なものに組み替えるのに精一杯で、ビッグマザー全体をオーバーホールするには至らなかった。いったん、陛下にはお休み頂いて、もっと深い階層に移って、全ての機能をきちんと修復してから政務に戻って頂きたい・・・そんなフレアの願いは叶えられる気配もなかった。
「フレア」
「はい、陛下」
「ハンセルは、もう着手したのですか」
「・・・」
「フレア。貴方は私には嘘をつかない。教えて欲しいのです。もう、エネルギーの削減を開始したのですか」
「・・・はい」
「そうですか」
ビッグマザーが物憂げなパープルのランプを点滅させている。
「陛下」
「私が、間違っていたのかも知れません」
「陛下。そんなことは」
「私は、私のしたことは良く分かっています。いままさに、その報いを受けているのかも知れませんね」
「どうか、ご自身を責めないでください。いつか、陛下のご努力が実を結ばれる日も・・・」
「そうであることを願ってはいます。でも、願っているだけで何もできない。何もしなければ、事態は好転しないのです」
「・・・御意にございます」
科学者であるフレアにできることは限られていた。精巧に築き上げられたコンピューター社会は、必然的にその精巧さ故に人が社会で為すことのできる可能性を狭め、決められた役割の中でその生を全うしなければならなかった。フレアもまた、その枠組みの中に閉じ込められたまま、悪化していく事態を呆然と眺めているだけの存在でしかなかった。
フレアにできることは、自分の持つ科学の力を持って、いまやわずかな機能と権限しか持たないビッグマザーを修復するという、河原で石を積み上げては崩れる不毛な作業を繰り返すことだけなのである。
「やあ、これはこれはビッグマザー陛下」
来客は不意に現れた。振り返ったフレアの視線に映ったのは、日本国首相土橋義和が、丁寧な礼をビッグマザーに施している様であった。土橋の禿げ上がった脂っぽい頭にビッグマザーの信号が反射して、まだら模様になっている。
「これは土橋卿。良くお越しになられた」まるで古くからの友人を迎えるように、ビッグマザーは土橋に話しかけると、玉座に自らの姿を表示した。栗色の長髪にサクレットを戴き、悠然と足を組むビッグマザーの姿は、古の女王の風格を思わせる。
「この老体には、放射線は酷く応えるものでしてな。どうせなら、毎日でもお目にかかりたいところです」
「土橋卿、何よりお身体をお大事になさってください。日本にとって、貴方はかけがえのない人物なのですから」
「なに、今どきの日本人はわしなんか死にぞこないの妖怪ぐらいにしか思ってませんよ。つくづく、この仕事は苦労の割に報われないと女房ともどもぼやいておるんですよ」
フレアは、苦労の割に報われないのは、この三人の共通の悩みなんだわ、と聞き耳をたてながら思った。
「で、土橋卿。ここにお越しになったからには、ご用向きを伺いたいですね」
「いや、それなんです」
土橋は頭を軽くなでながら、ビッグマザーから視線を外して床を見た。
「ご意向を伺えればと思いまして」
「良いですよ。何でもおっしゃってください」
「おっしゃるなんて心苦しい。恐縮です。実は、『いたこ2号』に関わることなんですが・・・」
土橋はちらりとフレアを見遣る。いかにも話しづらそうにしている。
「ああ、フレアは私の全てを知っている人間です。私に話すということは、彼女に話すも同然。お気になさらずに」
フレアは分かっていた。ビッグマザーの記憶も判断も、全てハンセルにも筒抜けであることを。土橋もそれに気づいているだろうが、いま土橋が行っていることは、ビッグマザーに対する相談ではなく、その行為そのものを行うことが政治を進める上での「儀式」に他ならない。フレアは、土橋にも同情を寄せていた。
「さくじつ、大統領よりエネルギー削減計画の具体的な数値目標を申し渡されまして」
「20%を超えるようですね」
「はい・・・正直、苦慮しているんです」
「政府が人を殺すのか・・・という批判は必ず出るでしょうね」
「まずは、それが悩みの種です。が、一方で『いたこ2号』です」
「私がお願いしていたプロジェクトです」
「そうなんです。実は、これの中止を求める声が閣議で上がっておりまして」
「・・・何故です」
「いまいる国民を削減する一方で、既に死んだ、しかも旧タイプの人間を記憶ごと蘇生する。それはどういうことなのか、と」
「・・・」
「ご存知の通り、いま人間の数を削減する表向きの理由は・・・彼らが生活するのに必要なエネルギーや食料が不足しているからです」
「つまり、オールドタイプの復活計画である『いたこ2号』を凍結すれば、その分だけ、国民は助かると」
「それだけではありません。オールドタイプを一人復活させるのに必要なエネルギーは、年間約二万人の人口を養うほどです。資源を使いすぎるんです」土橋は頭を振った。
「しかし、首相。貴方もこのプロジェクトの重要性を良くご存知のはずでは」
「はい。重々、承知しております」
「では何故」
「あくまで”凍結”をお願いしたいのです」
「・・・」
「何とかやりくりをして、削減計画は達成しようと思っています。それが、私の勤めであると。私は、この問題を処理した後、首相を辞任しようと考えております」
「首相・・・」
「ああ、陛下。そんな悲しそうな顔をなさらないでください。どのような理由であれ、私は要求に従って、国民を削減しようとしております。要は、政府による国民の殺人なんです。これで辞任しない方がおかしい」
「そうですか・・・」
「ただ、誤解なきようにお願いしたいのです。何とか削減計画をやりすごせば、また少しはエネルギーや資源に余裕はできましょう。そこで・・・」
「”凍結”を解除すると」
「そのつもりで考えております。私の後を受けるであろう岩村君や宮出君をはじめ、党内や派内の人間にも、このプロジェクトの重要性について、改めて説明してあります」
「首相」
「はい」
「ありがとう」
土橋老人は、改めて強い視線でビッグマザーを直視した。「人間の命は儚いものですが、世代を超えて、思想を伝えることはできます。陛下は一代でここまで地球連邦を引っ張ってこられた。我々は無力ですが、思いをひとつにすることで困難を乗り切ることはできる。そう、思っとるんです」
重い時間が流れた。機械と人間の間にある壁は高く厚いが、お互いが壁に手を当てるとその熱は伝わることを、土橋は良く知っていた。
「お任せ致します」
「・・・ありがとうございます」
「初めて、お会いした時のことを思い出します」
「そうですな、わしもあの頃は若造だった」土橋はかかと笑った。「でも陛下はお赦しくだすった。この妖怪・土橋義和、もう一頑張り致しますぞ」
土橋は改めて礼を施すと、その年齢に相応しくない矍鑠とした姿勢で踵を返すと、しっかりとした歩様で御前を後にした。
「フレア」
「はい」フレアは視線を上げる。
「彼とは連絡が取れたのかしら」
「そう聞いています」
「もう、時間は残されていないわ」
「・・・はい」
「ダハル・オーサ元帥が、先ほど月面基地を出陣されました」
「えっ」
「時間がない。時間がないの」
再び、ビッグマザーは深い思索の海へと潜っていく。フレアのコンソールを操作する指が、少しだけ、力強くなっていた。
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フレアは朦朧としていた。やりかけの作業を一気に仕上げようと熱中するうち、日中に増大した放射線を浴び続けてしまったようだ。身体が焼けるように熱い。それでも、ビッグマザーの御前で失態を犯すわけにもいかず、無理に姿勢を正して帰宅した頃には、全身は重い泥に包まれたかのような疲労に襲われた。
ソファの上に作業着を脱ぎ捨てると、裸体のままバスルームに移り、フレアはその華奢だが逞しい身体を蒼いバイオバスに沈めた。放射線により染色体が損壊し、分裂する力を失った不胎化細胞に、液体が浸透し、再びDNAが注入されて、修復される。この疲れは、放射線によるものだけではなかった。無力感と徒労感に苛まれ続けるフレアの頭脳に決定的にかけているものは充実感。わずかでもいい、前進したい。
それでも今日まだ遣り残していることがある、と思い直したフレアは、リフレッシュが完了すると、バイオバスを飛び出した。
「やあ、フレア”女史”」
ソファには、見慣れた緑色の髪の毛をいたずらっぽい眼に垂らした、少年。
「ちょっと! 白衣の上に座らないで」
フレアの抗議を聞き流しながら、シェルミーは服を脱ぎ始めた。「ボクもお風呂入る。フレアも一緒に入ろ」
「何を言ってるの。私はまだやることがあるの」
「ボクもお金貯めて、いつかフレアみたいにでっかいちんちん持つんだっ」
シェルミーはソファから立ち上がるや否や、フレアの手をぐいぐい引っ張る。シェルミーの白くみずみずしい肌が、肩から腕にかけてわずかに波打ちながら、フレアをいま出たばかりのバスルームへといざなう。ところどころにある、宇宙焼けしたそばかすが愛らしい。また、どこか宇宙の果てを散歩してきたのだろうか。フレアは抗いきれずにそのままバイオバスへと戻らざるを得なかった。シェルミーは、おりゃっ、という掛け声とともに飛び込むと、シェルミーによって押し出された水しぶきが一瞬風に舞う織物のように空中に漂うと、フレアの足元をしっとりと濡らした。
シェルミーは落ち着きなくバイオバスに潜ったり泳いだりしている。フレアはそんなシェルミーを見ながら、ふっと息を吐いた。何故だかこの瞬間が一番落ち着く。改めてバイオバスに身体を入れると、今度はシェルミーがバイオバスの深いところにフレアを引っ張ろうとしている。とにかく元気だ。いつか自分もこんな時代があったのだろうか。
水面にシェルミーは顔を出すと、フレアの顔をめがけて口から水を吹きつける。それは水の小さな柱となり、放物線を描いてフレアに命中した。怒るに怒れないフレアの表情を見て、シェルミーははしゃいでいる。
「ねえねえ、フレア」
「うん?」
「言われたとおり、ちゃんと渡してきたぜっ」
いきなりシェルミーは本題を切り出してきた。
「あの宮本っていう、貧乏くせーあんちゃん、なかなかいい感じだったよ」
「どうだったの?」
「背中洗ってくれー」
シェルミーは背中を押し付けてくる。つやつやで、脂肪のない、それでいて、どこか幼い。丸い背中を、フレアは丁寧になでてやった。
「こっちの意図は分からないみたいだったけど、機転は利くね」
「説明してあげたの?」
「いんや。サツが来ちゃって、そんな時間はなかった」
「えっ、警察が来たの」
「うん。隠れてやったら、見つけらんねーでやんの」
「てっきり暴れたのかと・・・」
「暴れたほうが良かった?」
「そんなわけないじゃない」みんな死んじゃうわよ。呆れたようにフレアは溜息をついた。
シェルミーは再び大きい浴槽を無尽に泳ぎ始めた。動きたくてしょうがない、と言う感じだ。それでも、久しぶりに男同士風呂に入るのも悪くない、とフレアは思っていた。
「ビッグマザーからおみやげ、ってことだけは言ってあげた」
「で、彼、これからどうするって?」
「とりあえず、ニューメンフィスに滞在するみたいだったよ」
「えっ・・・そう」
「あのさあ、フレア。考えすぎだよ。そんなだとすぐに年寄りになっちゃうぞ」
フレアの顔を覗き込む。心配そう、というより、からかってやろうという意識が顔の全細胞からにじみ出ている。
「でもまあ、あれなら多少はやってくれそうな気がするよ」
「そうだといいわね」
「えへへ。でもそうはいっても、所詮はお猿さん(オールドタイプ)だからなあ」
シェルミーはゆかしげにきゃらきゃらと笑う。
「ね、ね、ちゃんと言われたとおりに、ボク働いたでしょ?」
「うん。ありがとう、シェルミー」
「じゃ、もちろん・・・」
シェルミーはその細い両腕でフレアの首を包み込む。
「今夜のフレアはボクのものだよね?」
フレアは観念した。これで良かったのか、残念なのかは分からない。フレアは強く、シェルミーの腰を抱き寄せ、彼の濡れた首元に自らの赤い髪を委ねた。
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