|
「やれやれ。皆してこぞっていじめるもんじゃから、参っちゃったよ」
首相執務室に戻ってきた土橋は、その禿頭の上に被っていた帽子を衣装ハンガーにかけると、そうぼやいた。
「お疲れ様です、首相」宮出財務相は土橋から外套を預かると、衣装箪笥にしまってやった。宮出がやるべき仕事ではないにせよ、土橋に対する敬意が自然と宮出をそうさせるのである。
土橋はソファに落ち着くと、宮出もその隣に深く腰をかけた。
「これでまた、しばらく国会は空転しますな」
「改正食糧制限法が国連で決議された以上、我が国としてはいずれ追従しないと話にならないけどな。それにしてもしんどい話だ」
午前中の統一国民議会は紛糾した。国会の事後承認で”叛乱地域”への国連軍の派遣を容認した土橋政権に対する追及を一層強めた野党側は、集中的に国会質疑で土橋の非人道的な決断を非難しているのである。また、国連で決議された改正食糧制限法の国内施行について、土橋政権は国連政府憲章に基づき進めなければいけない立場にあり、こちらはさらに混迷の度を加速させる内容となって火事にガソリンを撒くが如き状況となっていた。
当然のことながら審議は全くといっていいほど進まず、そればかりか与党自民党内での結束も乱れた。若手を中心に造反議員が相次ぎ、党内調整もまた混乱を極めている。
「来期予算の審議入り日程が遅れるとまた暫定予算を組成しないといけません」
「また国連から指導力の低下を指摘されそうな勢いじゃな」
土橋は溜息をついた。しかし、政治の混乱は日本に限ったことではなかった。アメリカ上院下院も統一ヨーロッパ議会も同様に「政府主導で合法的に国民を減らす」ことに対する抵抗感が広く民衆の間に広がって、反政府デモが頻発していたのである。
「暴動制止ステープラーを活用したいと治安省から打診が来てますね」
ステープラーとは、暴動に参加している国民の精神を攪乱し、沈静化させることでデモなど政治的活動そのものに加担する気力をなくさせる装置である。当然、その使用は褒められたものではない。
「それはないよ、宮出君。国民の怒りは当たり前のことだ。わしだって、ややもすると心情的に反対したくなることもあることだし」
「首相」
「そういう顔をしなさんな。一進一退の攻防をゆるゆると進めていく中で、だんだんと落としどころが見えてくる、それが政治というものだ」
「また土橋名物先送りかと非難されそうですなあ、はっはっは」
「はっはっは、治安省には野党政治家のスキャンダルを漁らせるよう指示しておいてくれ。手ごろなタイミングで炸裂させて、なし崩し的に法案を通してしまうほかないじゃろうな」
「首相!」
大統領執務室に石川が入ってきた。自民党の若手論客の一人であり、将来を嘱望される代議士であった。背は低いが甘いマスクでズバズバと論陣を張る石川は国民の間で人気になり、党内でも若手を中心に人望を集める、土橋の秘蔵っ子である。
「おお、石川君。良く来た」
「良く来たじゃありませんよ、首相。真意をお聞かせ下さい!」
石川の顔は興奮で紅潮している。無理もない。今回の改正食糧制限法に深い失望を抱いているのだ。国民のためにならない法律を国連から強いられることに強い抵抗感を感じている石川は、党内でも頑固に法案に反対し続けている。いや、逆にそうであるからこそ、石川は今後の日本になくてはならない政治家に成長するだろうと、土橋は思っていた。
「まあ、まあ、そこに座りたまえ、石川君。いまお茶を出すのだ」
「のんびりお茶を飲んでいる場合ではありませんぞ、首相。一刻も早く日本の立場を明確にした文書を国連に送付しなければ・・・」
「そんなことしたって鼻で笑われるのが落ちだよ。一番効果的な行動を起こせるよう、時期を待つということを考えたほうが良い」宮出は首をすくめた。
「では、首相も?」
「わしは決して賛成ではない。賛成ではないが、反対でもない。何というかなあ、どうでもいい」
「そんないい加減な」
「昔から、良く言うじゃろう。『上に政策あれば、下に対策あり』だ。戦争は国連決議だ。すでに軍隊は進軍を始めておる。しかし、各国議会は紛糾しておる。どこよりも先に我が国が国連決議に反対だ、ということを表明すれば、我が国を快く思わない元首は自分の国会は棚に上げてこぞって非難してくるじゃろう」
石川は、浅くソファに座った。その足の上に両肘をつき、顔の前で手を組んでいる。
「何事を為すにもタイミングというものがあるからねえ」宮出も口を挟んだ。
「しかし、首相。それに宮出大臣。であればなおのこと、心ある各国首脳に書簡を送りましょう。国連に対する統一戦線を張れるよう、説得に回るべきではないですか!?」
「まあ落ち着くのじゃ、石川君」
「今回の戦争、大義名分がありません。私は戦争にも法案にも反対です、首相」石川は、心なしか背筋を伸ばした。
「良いか、石川君。わしも心情的には法案に反対じゃ。しかし状況は賛成に回らねば国の威信を損ねる。持っているボールはひとつしかない。投げるべきところ、投げる間合いを間違えれば、結果として全ての努力が無駄に帰すことになるじゃろう」
「そのボールは、どこに投げるべきと?」
「国民を二割削減せよ、といっても今すぐどうにかしろという話じゃあない。二年という時限措置のなかで結果を出しゃれ、ということじゃ。削減する国民は、我が国の国籍を持っていなければ良い。簡単なことじゃろ?」
「では、どこかの国に我が国民の命運を引き渡すと?」
「さてさて、世の中いろんな考え方というものがあるものよ。法案に政治的には賛成しても、結果として法案の狙いが履行されねばそれで良い」
お茶を煎れたドロイドがソファのところまでやってきた。馬鹿丁寧に宮出は「ありがとう」というとポットと取り上げ、人数分のお茶をテーブルの上に置いた。土橋はまるでスローモーションのような動作でカップを手にすると、鼻のあたりにお茶の湯気をたゆらせつつ、穏やかな表情でお茶をすするのを石川は眺めていた。
「そうだ。石川君」
「はい」
「恐らく、今回の議会の流れは法案についての調査委員会を設置する、という方向にまとまるじゃろう」
「首相、まさか石川君に委員長を?」宮出は土橋を見た。
「そろそろ、石川君も現場で汗をかいて良い時期に差しかかったかのう」
石川は口を真一文字に結んだ。調査委員長というのは重要法案の内容を吟味し、その履行についての指針を取りまとめる極めて重要なポジションだ。それだけでなく、かかる難題の采配を揮い実績を積むことが政治家としての立身出世の原点となることも石川は理解していた。
「では、その方向で石川君には奮励してもらいましょう」宮出は土橋から石川に視線を移した。石川は組んだ手をより一層固く取り結んで微動だにしない。
「まあまあ、石川君。そんなに緊張するものではない」
「首相。でも私は法案については反対です。それでもよろしいのですか」
「や、恐らく事を進めていく中で、いろいろと考えるところも出てくるじゃろう。じゃが、いまの段階で君に理解していて欲しいことは、法案に賛成することと、法案の内容を履行することとは違う、ということじゃ」
我が子を諭すように土橋は続ける。
「我が国は、法案に反対することはできぬ。これは仕方がない。議論を尽くし、紛糾していくら時間がかかっても構わんから、法案は絶対に通せ。じゃが、その法案の履行についてはいくらでもさじ加減の余地はある。わしらや役人連中とよくよく吟味し、間違った方向に進まぬよう、石川君は全霊を尽くしてくれ」
「はい」
「今回、石川君は役人と初めて仕事をすることになる。役人というのは恐ろしいものじゃ。わしらにはなかなか理解できない専門用語を使って、役人がやりたいように話を進めようと手薬煉を引いておる。じゃが、役人は決して無能でもなければ有害でもない。”調整”とは、自分の言いたいことはグッと堪え、万といる関係者全ての面子を立ててまぁ〜るく収まるように、それでいて、方針は違えぬように、時として強く出で、時として退いて誰からも異議の出んよう推し進めるのじゃ」
「その調整を私がやると・・・」
「調整なくしては政治は成り立たぬ。いままでは責任を負わなんだから、言いたいことを言いたいように言っておれば皆石川君を褒めそやす。しかし泥を被る仕事となるとそうはいかない。結果が出なければ叩くし、結果を出せば重箱の隅をつつくようにワーワー文句を垂れてくるもんじゃ」
「そのような任を私にできるでしょうか」
「できるから、させると思ったら間違いじゃ。や、多分石川君一人ではできないじゃろう。わしが言いたいのは、石川君、思 う 存 分 や っ て み ろ 。 失 敗 し て 全 く 構 わ ん 。事を進める力加減、さじ加減はいずれ分かる。わしの目が黒いうちは、仮に石川君がコケてもいくらでも収拾がつけられる。なに、わしや宮出君が迷惑するなんて思わんで良い」
宮出はからからと笑った。かつて宮出も若手と呼ばれた頃に、幹事長に就任したばかりの土橋から同じようなことを言われてしんどい思いをしたのを思い出したのである。
「どうじゃ、石川君。やってみんか」
「・・・はい。お役に立てるよう努力します」石川の瞳は何やら決意に満ちている。まずこれなら何の結果も出ないということはないだろう。
「では、宮出君」
「そのように進めておきます」宮出は立ち上がった。
土橋は自分の執務室を去る宮出と石川の背中を見送りながら、ゆっくりとお茶を飲み干した。
「さてさて、天命を待つのも堂に入ったものよ」
遅めではあるが、手は打った。これはこれで、それなりの成果を出してくれるだろう。しかし、土橋は国会空転より気になっていることがあった。セシルがテロリストに襲撃をされ重体となっている、という情報が入ってきていたのである。シェルミーがセシルを手にかけるとは考えにくい。土橋の気分を重くさせるのは、セシルとシェルミーの笑顔を交互に思い出しつつ、何か変なことに巻き込まれてしまったのではないかという疑念が頭の中を回っているからであった。
「ああ、藤井治安相はいるかね」
土橋はスクリーンを呼び出すと、いつになく重い声でそう伝えた。
--
「ちょっと、何なのよあんたたち。また変なこと考えてるんでしょ」
サキは三井と犬伏の前に立ち塞がった。エイリアと帆足は、各々困惑したようにことの成り行きを見守っている。
「おいおい、ご挨拶じゃないかサキ。こっちはニューメンフィスでくだらねえ任務についてクタクタなんだぜ」
「そんな孤立したあんたたちを助けるために来たんだから、少しは感謝して頂戴」
「何だと」大柄な犬伏がカッとなって一歩前に進み出るのを三井が制止した。
「待て犬伏。なあ、サキ。俺たちはちょっとそこのエイリアに話をしたくて来たんだ。そこをどいてくれねえか」
エイリアはさらに怯えたような表情になる。
「お断りしておくわ。どうせろくなこと考えてないでしょうし」
「その女がどうしようもねえクソ情報を掴ませたから俺たちは無駄足を踏んだんだ!」
サキ越しに犬伏が怒りの指先をエイリアに向けると、サキは犬伏を両手で突き飛ばした。大柄な犬伏と言えどサキの膂力に耐え切れず数メートルほど吹き飛び、通路の壁に右肩を強打した。
「ふざけるな!」
三井がサキにつかみかかり、三井とサキがもみ合いになるのを帆足は止めようと間に入る。
「待って、待って。落ち着きなよ君たち!」
「お前には関係ないだろ! 引っ込んでろ!」
三井が軽く振った腕が帆足の眼鏡を吹き飛ばし、帆足はよろめいて部屋の中で転んだ。さらに廊下で少しへたっていた犬伏が参戦した。三井とつかみ合っていたサキの顔に犬伏が拳を叩き込む。ガクッと片膝をつきかけたサキは体勢を整えると、お返しとばかりにつかんだ三井を犬伏に投げつける。三井と犬伏はもんどり打って廊下に倒れた。さらにサキは犬伏におっかぶさり、二人に蹴りを入れる。犬伏はぐえっと声を上げ、その場で大の字になって失神した。三井はサキの髪を鷲掴みにすると腹を蹴り上げ、床にサキの頭を何度も叩きつける。その三井の腕を取ると、サキは力強くひねり上げ、床に組み伏せた。
騒ぎを聞きつけた他の隊員たちが見物に訪れ、あたりは人だかりになった。元々、血の気の多い若者で構成された部隊である。ちょっとした喧嘩は日常茶飯事だが、何せ喧嘩している連中が連中だ。本気で暴れだしたらいくら駆逐艦ジンターといえど無事では済まない。
さらに、騒動に全く関係のない者同士が「前が見えない」「肩が当たった」などと言って殴り合いの喧嘩を始めるに至ると、もはや完全に収拾がつかなくなってしまった。喧嘩は連鎖し、そこここで喧嘩の華が咲き乱れ始めた。怒号や罵声や悲鳴がない交ぜになったまま、狭い通路で二十人以上の若者がつかみ合い、小突き合っている。
研究室の室内から、帆足が恐る恐る様子を見ているが、一向に収まる様子はない。むしろ、三井との争いに勝利したサキが別の喧嘩の輪に参戦して騒動が広がると、さらにボルテージは上がっていった。これから別の作戦が始まろうとしているのに、何故大人しく指令を待てないのだろうと帆足は眉をひそめた。その後ろでは、犬伏に侮蔑されてひっそりと涙に暮れるエイリアが一人座っている。こんな荒くれ者ばかりの集団に同行するエイリアが不憫でならなかった。
その帆足の足元に、サキに蹴り倒された赤田が突っ伏すと、帆足はさすがに溜まらなくなり和田を呼ぼうと慌てて室内に入ろうとした。その時である。
「何をしてるんだお前ら!」
一喝が響き渡ると、喧騒は一気に収まった。人だかりの向こうに、和田の禿頭が見えると帆足は少し安心した。組み合う隊員はその手を止め、一斉に和田のほうを見た。表情は変わらないが一段と威厳を発する和田が、その頭につややかな光沢を湛えているのが分かる。
「持ち場を離れるな! さっさと帰れ!」
わずか十数秒前には興奮の坩堝にあった隊員が、まるで憑き物でも落ちたかのように三々五々各自の職務へと戻っていく。
三井が失神した犬伏の肩を抱えて運び去るのを黙って見送りながら、和田は研究室に入ってきた。殴られた顔を押さえていたサキは和田の姿を認めると、和田から視線を外した。帆足も、何事もなかったかのように研究用の端末パネルに向かっている。
戦闘集団”白き獅子団”のもうひとつの日常。それは鬱屈した若きテロリストたちの、生命のほとばしりだった。肩を並べて戦い、命をかけて任務を遂行する一方で、些細なことで傷つき、ぶつかり合う個同士の衝動もまた、彼らの本質であった。
そういうとき、隊長である和田は大抵黙ってみていた。ひとしきり、彼らが拳で語り合ったあと、頃合を見計らって収拾する。若さ故のガス抜き。溢れ出た闘争心を押さえつけるよりも、まずは好きにさせるのが和田流なのだろう。別に喧嘩の理由を聞きとがめたりはしない。ただ、一通りやらせた後で、やり過ぎないところで止めるのである。
「お前ら、怪我はないか」和田は重々しく口を開いた。
「僕は大丈夫」帆足は答えた。「でも、エイリアが」
「何。エイリアも巻き込まれたか」
「いや、そうじゃなくて・・・」帆足は口ごもった。
「三井と犬伏が、エイリアを詰りに来たの。ガセ情報で俺たちは大変だったんだ、って」サキは騒動の発端を説明すると、和田は首を傾げた。
「ふむ」
「ま、いつものことだけど・・・でも、ほかの隊員はともかくエイリアを責めるなんて、僕には理解できないな」帆足は口を尖らせながら、作業を続けている。
「帆足。作戦開始の準備が整うまで後どのくらいだ」
「うーん。あと40分といったところ」
「20分で仕上げろ」
「了解」帆足はそっとエイリアを見た。和田も、その視線に気づいて、エイリアに語りかけた。
「エイリア。大丈夫か」
「わたし・・・」
「ほかの奴らの言うことは、あまり気にするな。奴らも必死に戦っている」
「はい。分かっています」エイリアは濡れた瞳を和田に向けた。
「あと20分後にはお前の力が必要になる。頼んだぞ、エイリア」
サキは苛々したように、和田とエイリアのやり取りを見ていた。和田がエイリアの髪を丁寧になで付けてやっているのを見て、何とも身が焦げる思いがする。そりゃ繊細な女の子が怯えているのだから、必要なことなのかも知れないけど。
「分かりました。いつでも、大丈夫です」
「そうか。じゃ、サキ」
サキがうなずくと、和田は司令室へと戻って行った。
「ね、エイリア。あったかいコーヒーでも、飲む?」
「あ・・・ありがとう」エイリアはサキを見た。
「で、そこのあんたは飲むの? 飲まないの?」
「やけに態度が違うんじゃない?」帆足はささやかに抗議した。
「数分で戻るけど、研究室のドアはロックしといてね。変なのが来ても知らないわよ」
サキが一番変だ。帆足の反論は声になることはなかった。
--
吉永艦隊が、通信機能が混乱して機能不全に陥った吉田艦隊を発見したのは、月面基地を出発してほどなくのことであった。
「やれやれ、こんなところで吉田はいったい何をしているのかな?」
のんびりと現状確認を指示すると、吉永はおもむろに救援体制に入った。
「なあ、吉本大尉」
「はっ」
「お前、今年幾つになったっけ?」
「え? ええと、先月45歳になりました」
「子どもは?」
「倅でありますか? 今年上の子は小学校に入りました」
「そうかあ、大変だね」
「は、はあ」
吉本は、居心地悪そうに屹立している。それを無視するかのように、吉永は言った。
「いま、本隊は三十四隻で組成されている。このうち、本艦を含む航行速度の遅い旧型艦十四隻を救護に充てる」
「はっ」
「で、俺はこれから高速巡航艦に移るから。じゃ、あとはよろしく」
「は?」
驚く吉本をまたまた無視して、吉永はもっさりと移動デッキへと歩いていった。
吉永は、高速巡航艦に駆逐艦十隻と補給艦十隻を吉永本隊とすると、救護させている十四隻を置いて「これより、先方の安全を確認するため、救護の任にあたらない二十隻はダハル・オーサ艦隊間を巡回航行する」と月面基地に打電した。報告を受け取る坊西の唖然とした顔が目に浮かんで吉永はひとしきり大爆笑すると、笑いが収まるのを待って「それじゃあ、航行開始」とばかりにダハル・オーサ艦隊を目指して高速発進した。
--
「さて、あと十分ほどで出航やがな」藤本は嬉しそうに言った。「この躍動感! そして緊張感! ほんま、いつ味わってもええもんやなあ」
「藤本が言うと全く緊張感が感じられんな」
第十五流星丸は、軽いエンジンの振動を椅子伝いに俺へ感じさせた。これから、太陽系を出る。もう戻れないかも知れない。それでも不思議と郷愁のようなものは感じなかった。右隣に座っているのが藤本だからか、と思ったが、単に実感が湧かないだけかと思った。宇宙港の待機ステーションを出て、第十五流星丸は離発着デッキまで搬送され、出航の時を待っている。
てっきり宇宙服でも着るのかと思ったら、藤本から手渡されたのは「安全第一」と書かれた黄色いヘルメットとフェイスガードだけだった。何と言うか、情緒も何もあったものではない。宇宙服は着なくていいのか、という抗議じみた問いを藤本に投げかけたが、そんなもん着ていつの時代の話や、と返されてしまった。重大なことがあって空気漏れでもしたとき考えればよろしやろ、とのんびり言われると、そんなもんか、と納得した。
「だいたい宇宙服なんぞ着て、ろくなことあれへん」
「何で?」
「宇宙に漂う死体は二種類や。宇宙服を着た死体と、そうでない死体」
「・・・あっそ」
「それはそうと、最初はちょっと揺れるかも知れんけど、じきに無重力の世界になるよってに安心しいや」
「安心ったって、何もかも初めてだからそうなってみないと分からんな」
「ま、ドーンと任せとき」
藤本は出航後の航路について、手早く説明してくれた。数周木星をスイングバイし、その後加速許可が出て太陽系の外へと旅立つという。
「そのあたりのことは俺には皆目分からん」
正面スクリーンをぼんやり眺めながら、ほかの船に乗り込んでいる小宮山や初芝、堀、園川は何を思っているんだろう、と想像していた。
「そや。大将がお散歩しとる間に、ひとつ耳寄りなニュースやで」
「何かいい話でもあったか」
「大将の一つ前のクラス、全員出航した後、全ての船からの交信が途絶えたそうや」
「いい話じゃないじゃねえか」
「ま、そんだけ遣り甲斐のある仕事っちゅうことや」
「ものは考えようだな」
この藤本は前向きというのか楽観的というのか、全てのことをいいように捕らえる傾向があるようだった。
『第十五流星丸、離陸準備オーケー』
正面スクリーンではゲートの開いた宇宙港ごしに、無数の星を湛えた虚空の宇宙がぽっかりと見晴るかす。離陸カタパルトが第十五流星丸にジョイントする振動を感じると、藤本が叫んだ。
「ほな、いきまっせ!」
第十五流星丸のエンジン音が大きくなる。いよいよ出発か。と思うなり、ゴーという音と振動と共にいきなり椅子に押し付けられるようなグラヴィティを感じ、第十五流星丸は宇宙コロニー・ニューメンフィスから出立した。
「ひゃっほう!」
「おわっ」
目の前のスクリーンの下部には巨大な木星の大気が、その正面には衛星イオとその鉱山基地が見えている。木星からの高度と船の速度を示す表示がまるでスロットのようにちらつく数字として現われ、どちらも適正範囲内を示すグリーンのランプを点滅させていた。と同時に、ニューメンフィスの重力圏から出て無重力状態となった船内は、いままで床に積もっていたと思われる埃がわずかに舞い上がり、天井横のエアダストへと吸い込まれていった。椅子にベルトでつながれた俺たちはもちろん放り出されなかったが、何とも奇妙な浮揚感に襲われた。これが、無重力。
「おんや?」
藤本は怪訝な声を挙げた。
「わしら、出航は十五番目やってんけど、なんか、いの一番に出たような?」
「おい、大丈夫なのか」
「知らんがな。でも、まいっか」
「いいのかよ!」
藤本は操船し、より高度を上げると、時折差し込む少し強め光を放つまばゆい太陽が、去る俺たちを惜しむかのようにきらめきを船内に投げ込んでいる。
『第十五流星丸、離陸完了。ゴーアラウンド』
『了解』
藤本は鼻歌交じりに管制と交信している。気楽なものだ。彼は一種の勝負師か何かなのかも知れない。
「なあ、この時折画面が光るのは何だ?」
「船体の磁気フィールドが宇宙ゴミを弾いとるんや。磁気フィールドが光ると、正面の映像センサーにも引っかかる、ちうことやな」
「そんなゴミって多いものなん?」
「そうやなあ、下手すると太陽系外のほうがゴミは少ないのと違うか」
「そういうもんなのか」
「おう、あの左下にある、大きい岩っころあるやろ、あれがニューメンフィスや」
「何。もう木星一周したのか」
何となく、しっとりと手のひらに汗を感じる。わずか数分で一周してしまうものなのか。
「太陽系出ると速度制限もなくなるよってに、この数倍は速度出しまっせ」
「そんなスピード出して大丈夫なのか」
「心配せんでよろし。こう見えてもわしは、無事故無違反のゴールドドライバーなんやで」
わずかに、ほかの探査船と思われる点が、太陽の光を浴びてかすかにその存在を示していた。第一陣四十機、俺を含め全員無事だといいのだが。
「待った! なんや、あれは?」
「どうした」
藤本はスクリーンを操作し、映像センサーの方向を固定した。藤本が映し出したスクリーンには、整然と並んだ点が、二重となり三重となり、まるで一つひとつの点が長方形を象って並んでいる。時折、いくつかの点が長方形を出たり入ったりしながら、速い速度で木星へと近づいてくるではないか。
「何だ、これ?」
「知らん。えらい近づいてくるど」
藤本は管制との交信をオープンにした。
『ニューメンフィス。こちら、第十五流星丸。スイングバイ完了。高度指示求む』
『ガー』
「どうした」俺は問うたが、藤本ははっとした表情で操縦桿を引いた。
「あかん! こら緊急事態や! このまんま高速離脱しまっせ!」
「何だ何だ」
「大将! ちーと、つかまっといてや!」
藤本が言うや否や、いきなり船は高速旋回し、俺は椅子の背もたれから九十度左の方向へ投げ出されそうになった。船体がきしむ音も聴こえてくる。
「どわっ」
「少々荒っぽいけんど、許しておくれやす!」
藤本がブーストスイッチを押すと、今度は背もたれにぐいと押し付けられ、さらに速度を上げて、第十五流星丸はその慌しい別れを木星に告げた。
|