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SH-5。第五の塩基。
20世紀に遺伝子の存在が確認され、21世紀初頭にはヒトゲノムの解析が完了した遺伝子関連技術は、その後停滞を余儀なくされていた。当初、約30億対の遺伝子データが人間の生成に関わる全要素を構成しているものと考えられ、遺伝子起因説が主流となった。
アメリカ民主時代(20世紀から23世紀)の理論的支柱となった情報技術、ナノ技術、宇宙工学、そして遺伝子技術は、いずれも人類が神の領域に立ち入るためのゲートキーとして認識され、世界帝国アメリカが中心となって進められたが、特に遺伝子技術に対する研究は全世界が経営資源を集中し、非常に熱心であった。
遺伝子起因説はすなわち遺伝子こそが生命の設計のことであり、当時の人間(オールドタイプ)の基本的な欲求のひとつであった”不老不死”へ至る近道である、と信じられていたからである。人間のクローニングが技術的、倫理的、政治的に可能となった21世紀中盤には、人間の胎盤などを利用してテーラーメイドの臓器生成技術が確立され、移植によって拒絶反応を起こさない人工臓器が普及。さらには原始的なクローン技術によって同一の遺伝データを持ち、外形的特徴を等しくする個体を量産するスキームが安定的に運用されるようになるなど、飛躍的な進歩を遂げていった。
21世紀後半になると、人間の社会において特別に有利な遺伝子群の存在が統計学的に明らかになるにつれ、再び優生学的アプローチが密やかに進行していった。ジーンリッチという禁忌の概念が一般的に広く普及し始めたのはこの頃からである。つまり、有利な遺伝子を購入し、自らの肉体に利用することが個の生存、発展においても有利であると強く信じられたのであった。俗に言うジーンハイプという社会現象は、生命を弄くる技術に抵抗のある宗教勢力や、遺伝子の多様性に拘る環境主義者の間とのトラブルが絶えなかったが、多くの楽観的な技術信仰に支えられ、空前のブームとなっていったのである。
これら楽観的な遺伝子起因説に端を発した技術進歩停滞の理由は、普及した遺伝子の不活性化という現象が顕著になったことによる。22世紀に脳地図による記憶と生命の関係が確認されはじめると、原因不明のジーンキャップという、不可解な仮説が構築されるに至る。一定の性質を持つ遺伝子が、種集団のとある割合を超えると、その性質を発揮しなくなるという現象だ。
比較的早くから、豚や牛、羊などの家畜(ライブストック)においては、肉の脂肪分の増減などの個体性質から判明していたことではあったが、人間の能力、数学能力や空間認識能力などにおいても同様の限界点が存在することが分かったのである。これにより、遺伝子そのものがその個体の絶対的な能力を決定するわけではないことが改めて確認された。
やがて、遺伝子関係性説が復活し、すべての遺伝子は相互に作用しあい、機能を発揮するという仮説による検証がなされたが、たんぱくの合成という分野以外においてははかばかしい成果を得ることはできなかった。三十億もの遺伝子対を相互に検証するという膨大な実験が行われるが、人類の期待に沿う結果とはならなかったのである。この後、遺伝子技術はアメリカ民主時代の終わりに至るまで、目立った進歩を達成することができずに終わる。
ビッグマザーが登場する前期暗黒時代前夜の23世紀中盤、技術者スティーブン・ハイアットが同種関係性説を打ちたて、遺伝子の機能発現には同種間の相対的な作用が刺激、ストレスとなり、遺伝子スイッチが入ることで機能することを発見する。さらに、遺伝子を構成する原子の同位体もまた、遺伝子の性質に大きな影響を及ぼすことが明らかになると、膨大なジーンストックを組み上げることで、一定の範囲内で生命を生前の記憶ごと復元させることに成功する。つまり、遺伝子は先天的に決定されたリードオンリーのプログラムではなく、ランダムアクセス可能な機能を有していたという画期的な発見であった。
この学術的な成果に基づいて、生前の記憶は脳内に情報を蓄積する個としての活用部分があるだけでなく、遺伝子自らがその構成する分子の同位体を取り込み替えることで、その子孫に生前の記憶を伝達し生存に適した機能を強化することが立証されるに至った。これにより、個の記憶と遺伝子の記憶と種の記憶という、みっつのパラメータによる生命の進化のメカニズムが解明されたのである。
後に、”フィアスコ”細菌群による疫病”スクリーマー症候群”が猛威を振るうが、この変異体が極端に多い細菌に対応するだけの多機能ワクチンの製造が追いつかず、当時の人口の約半分、百八十億人がこの疫病のために死亡した。主に神経系統や腸で爆発的に繁殖し、潜伏期間の極めて長い”フィアスコ”細菌群は、不可解なことに霊長類しか発症しなかった。最悪期であった2276年には、人類の実に75%が”フィアスコ”細菌群のキャリアであり、7%が”スクリーマー症候群”を発症して隔離され、発症者の多くは満足な治療を受けられないばかりか、尊厳死を強要された。根絶のための方法論は、効率の良いワクチン開発と運用に加え、究極には人類を霊長類でなくすことしかなかったのである。
「ということでですね、ホステトラーさん」
「・・・えっ、あっ。はい」
「はい、じゃありませんよ。それじゃ、次、この事実を説明してください」
クラスメートがくすくす笑っている。何を笑ってるのよ。あたしが当たるの、分かってたなら、起こしてくれてもよかったじゃない。モロー教官のふてぶてしい目つきが、あたしをなめ回すように見ている。死にやがれ、この糞ばばあ。
「ええと、第五の塩基とは、人類が本来持っていたA、C、G、Tの四つの塩基以外の、Sという新しい塩基のことで、対となる塩基を持たずRNA転写においても変わらずSの機能を保持するシンメトリーな分子構造を持つ塩基のことです」
「はい、続けて」
「精神系統を混乱させたり、腸内の生態系で出血性の高い症状を出すフィアスコ細菌群を効率的に排除するには、これらが増殖する際に必要とされるたんぱく形成のメカニズムを人為的に操作することでしか不可能だと、ハイアット教授は考えていました」
「では、その新しい塩基Sはどこに配置されたのでしょう」
「は、はい、えっと、精神を包み込む細胞や腸の表皮細胞を形状的に定義していた塩基配列の周辺に、ダミーとして配置されました。他遺伝子とSの関係性により、フィアスコ細菌群の繁殖を抑え、無力化するたんぱくが継続的に生成されることが確認されました。で、この遺伝子治療によって、フィアスコ細菌群は安定し、一般の細菌序列の中に組み込まれ、疫病は沈静化しました」
「それで?」
「あ、うんと、Sは既存の遺伝子データとの関係性が確認されて、旧来の人類と約0.4%の遺伝子差異が認められて、Sを持つ新型と、持たない旧型では精神構造が変わり、また種の生産が行われないことが確認されました」
「はい、よろしい。このように、人類は疫病の克服と共に、宇宙世代に相応しい新しい種へと進歩の扉を自らの手で開けた、ということです。分かりますね?」
室内には気力のない「はーい」という返事がこだましている。授業長すぎるってんだよ。そう心の中で軽くぼやくと、授業終了の刻を告げるキーンコーンカーンコーンという音が教室内に響き渡る。終わった!
」それでは、今日の授業はここまで。それと、今日緊急放送があったように、明日からは臨時休校になります。ファイルやコンソールに置いてある個人的なデータは全て一時消去してから下校するようにしてください」
「分かりました、教官」
「それでは、ごきげんよう」
モロー教官の姿が教壇から消えると、二十メートル四方の教室には一気に弛緩した空気が充満する。この二十人のクラスで、出席していたのはわずか八人。苦痛を共有し、分け合うべき戦友が少なくなる分、一人あたりの負担は増える。結果として、真面目に授業に出ていた人間ほど強いストレスを浴び続け、休んだ者勝ちという万国共通の構造がここに実証されるのであった。
ミグ・ホステトラーは、自分のコンソールを閉じると大きく伸びをした。愛用の熊のホロマスコットの表示をキャンセルすると、どこにでもある普通のコンソールパネルへと戻ってしまった。
「あーっ、今日も一日長かった!」ミグの後ろの席にいた、ミーロの甲高い声が教室に響き渡る。
「あーあ、終わり際にいきなり当てるなんて、ほんと酷いよねー」
「それは寝てたミグが悪いんじゃないの?」ミグのぼやきを横で聞いていたチェロニーが答える。
「ミグはここんとこ毎晩、アレのお陰で夜が忙しいのよ、きっと」
「あ、やっぱそうだよね、もう毎日貫徹なんだよね、ミグは」
「あんたたち! そりゃちょっと言い過ぎだろ、ボケが」
ミグは思わず声を荒げる。しかし、あながち外れ、というわけでもなかった。アレといっても、最近ミグが聴き始めた地球発のバンドグループ「マン。チャリオット」にはまっていて、先週その全国ツアーのライヴがデマンド配信され、ミグの貴重な睡眠時間を奪って余りあるのであった。
聖ライコス女学院。通称ニューメンフィスと呼ばれる第二十八コロニーの有力者の愛娘が送り込まれる全日制高等学校である。総学生数八百人のこの中規模な女子校には、他のコロニーからも格式の高い各家からの入学者を迎え、非常に高度な教育を行う機関であった。”太陽の遣わし給うた天使の学校”と称し、全世界から選りすぐりの教育者が集められて、既に三万人の卒業生を送り出し、各界で活躍している名門中の名門なのだ。
「むうう、腹が減った! 余は腹が減ったぞ!」
「やっぱしここはさっとお茶漬けバーにでも行って、がしがし喰い散らかすのが先でしょ」
「その前にあたし、うんこしてくる」
このように、学校としての格式が高く、その授業内容が極めて高度であったとしても、そこに通う女子生徒の品位が高いという保証は全くなされていなかった。
「つーか、最近ケーサツうざくね?」
「明日から学校休みだし、パーッとどっかでパーティーしようよ」
「それよか、昨日は飲みすぎた。パーッとゲロぶちまけたい気分」
むしろ、表面的な品位よりも、生徒個人個人の思いに任せ、自由な校風を維持することで、安全な「若さゆえの過ち」を奨励しているのかも知れなかった。
「でも・・・戦争かあ・・・」ミグは強化ガラスの向こうに見える無数の星屑を見詰めていた。
「どーしたのミグ。そんな物憂げに外なんか見ちゃって。残念ながら、そこには男はいないよ」
「このあたしにも、センチになることだって、あ・る・の」
「はいはいっと。それじゃ、お茶漬けでもかっ喰らって、景気づけでもしなくちゃね」
「やっぱ、あたし、今日は帰る」
「なんだよミグ、つれないねぇ」
「ただいまー」チェロニーが帰ってきた。
「ちゃんと出すもの出した?」
「かなり大きめ」
「下品なんだよ、あんたたちは」
ミグはふっと息を吐いた。白い制服の袖でちょっと鼻をこすり上げる。
「ほお、ミグ様は授業の最後に当てられて、非常に不機嫌であらせられるか」
「そんなところで校長の真似をしないで」
「しょうがないじゃん、校長は上品なことだけが取り得なんだからさ」
「下半身は下品だけどね」
校長はちょうど先週、新聞部のスクープでモロー教官との情事をブログ上にて迫力ある映像が絶賛のうちに公開され、学校内ではいまちょっとした時の人だった。
「あの映像は頂けないよなあ」
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いつもの友達会話は気が紛れるけど最近何だか疲れる。何でだろう。寝不足だからかも知れないけど、とっても息苦しい。今日、授業途中で特別放送があり、戦争に突入すると伝えられた。地球にほど近いコロニーであるニューメンフィスにとって、取るに足らない情報であるはずがなかったが、ニューメンフィス市長がことさらに喧伝するほど、ミグにとっては地球は嫌いな存在ではなかった。むしろ、好きだった。
子供の頃、両親に連れられて初めて軌道エレベーターに乗り東京を見て、あまりの大きさ、きらびやかさに感激したものだった。が、それよりも何よりも自分の足の下には土があって、真下に自分の重みが来て、これが人類がずっと感じてきた「自分の足を使って歩いてる」ということなのかと分かった時、地球の暖かみみたいなものを深く自分の中に抱きしめたいと思った。
ちょうど五年前にも、地球と独立コロニー間での戦争は起きていたが、地球連邦側についていて独立しなかったニューメンフィスにとっては好景気の始まりだった。ニューメンフィスの周辺宙域に補給地点が作られた関係で、ニューメンフィスで物資が大量に調達され、また数百万人の軍人が駐屯して空前の活況に沸いた。
かくして、宇宙コロニー間ではニューメンフィスは特別な地位として位置づけられ、宇宙コロニーや開発星系が行う宇宙連合会議(コズミック・ユニオン)の座長は長くニューメンフィスの代表が務めていた。十何年か前から持ち回り制となり席は譲ったが、それでも宇宙へ向かうハブ機能としてのニューメンフィスの独自のポジションは保持された。その結果、コロニーは拡張に拡張が重ねられ、今ではその人口が二千万人を数える。地球の人口に比べれば微々たるものだが、地球の平均的な生活者のそれに比べて、ニューメンフィスの住民は比較にならない豊かさを謳歌していたのである。貿易、という手段で。
必然的に、ニューメンフィスは必ずしも地球連邦政府の意に沿う統治形態ではなく、経済学においても古典的な自由貿易思想が中枢をなしていた。連邦政府としても、地球に供給される食料、エネルギーの半分以上をニューメンフィス経由の貿易によって維持しており、その秀逸な市場のメカニズムこそがニューメンフィス繁栄の原点であり、政治力の源のひとつなのであった。
家に帰る通学用エア・バンには、数人しか乗り合っていなかった。それはそうだ、もう2200を過ぎているのだから。授業は長く、厳しい。十四時間にも及ぶ講義を週に五日もこなさなければならない。しかも、専用に割り当てられたコンソールパネルから発せられる網膜プロトコルが、瞳を通じて容赦なくミグの脳内に知識を放り込み、その咀嚼を充分することなしに次々と吐き出される政治、経済、歴史、数学、哲学、文化などなどあらゆる叡智を取り込んでいかなくてはならない。
それは、有史以来三千年に渡って人間が英々と築き上げてきた知識を、獲得し、処理し、次の創造に繋げていくプロセスのことであり、レギュラシオン学派も裸足で逃げ出す”知的エリートによって人類のヒエラルキーが形成される”という現実の悲しい姿でもあった。人間は、人間の中で整理をつけることが不可能なほどの知識の中に埋没していることの証左でもある。だから、こうしてミグが帰宅する最中も、彼女の脳は眠らない。
エア・バンを降りるとそこは閑静な住宅街。一見二十一世紀の日本の住宅地を髣髴とさせる小さな家々が建ち並ぶ一角に、ミグの家がある。その違いは、たったひとつ、異常に低い空だけだ。無骨なエアダクトが三百メートル上の天井から見下ろし、夜を意味する暗い照明の中で、淡い青色の光と低音の通気音を辺りに撒き散らしている。狭いコロニーで集合住宅でなく個人で土地を持つことの出来る贅沢、それが特権階級の証だった。家の前で、ミグはちょっと息を整えると、意を決して家の中に飛び込んでいった。ここからは、家の中のあたし。
「ただいま、お父さま」
暗い室内、八畳ほどのリビングルームにあるソファーの向こうで、白髪の混じった頭が左右に揺れている。眠っているのかしら。正面のスクリーンでは、アスレチックスとベイスターズの野球中継の模様が映し出されている。またベイスターズがボロ負け中・・・。
ソファ前のテーブルには、ポテトチップスの袋がもう中身のない虚しい姿を晒して所在なげに散乱している。その正面に座る主、ミグの父であるリッセンはかすかな寝息を立てて眠っていた。ミグは脂ののったリッセンの頬に軽くキスをすると、起こさないようにそっと台所へと向かった。お腹すいた!
台所のコンソールパネルをオープンにすると、まだ誰も手をつけていない今日の夕食のメニューが並ぶ。
「お母さま、今日もまだ帰ってきていないんだわ」
そっと独り言を言った途端、スクリーンからわーっという歓声が沸きあがる。
「なんだ、逆転したかっ」
リッセンはにわかに起き出し、画面を見入るが、無情にも得点ボードには惨敗模様だったベイスターズがさらに点を取られて無様な試合展開を露にしていた。
「お父さま、もうベイスターズファン、やめたら?」ミグがつい、口を挟む。
リッセンは、ふっとソファの向こうから台所を見やり、ミグを見て、帰ってたのか、という表情になる。ミグは、こんな父親のふとした優しい表情が何よりもいとおしいと感じているのだった。
「いや、俺はベイスターズファンを止めるぐらいだったら人間辞めるぞ」
「でも、お父さまが生まれてから、一度も優勝してないじゃない」
「祖父から三代に渡って、ずっと優勝しとらん!」
「何も好き好んでそんなチームが好きにならなくたって・・・」
「何をいっとる。俺が死んだら、お前が俺の跡を継いで立派なベイスターズファンに・・・」
「ならないわよ!」
といいつつ、ミグは、つい、笑ってしまう。コンソールをいじって、調理の支度を指示すると、リビングに戻って部屋着に着替え始める。
「まったく! 何がキャノン砲打線だっ! ダメ外人にクソ投手に外れルーキーにヘボ采配! おまけに大事なところで守備までやらかして!」
とミグの方を振り返った瞬間、千年一日のごとく人間の歴史の中で繰り返してきた平凡な家庭の惨事に直面するのである。
「・・・何見てんのよ」
「全部、ピッチャーが悪いんだっ」
リッセンは170cmは超えようかというミグの全身に一瞥をくれると、またスクリーンに目をやる。もう十七歳か。俺も老ける訳だ。言葉にならないこの発言も、ミグは知っているのだろうか。そうしている間にも、またベイスターズは二点タイムリーを浴び、悲惨の度合いを色濃くしていた。
「おまえ、また髪の毛、赤くしたのか」
「うん。ショートなら、やっぱり赤でしょ」
「来年は、試験だぞ。黒の方が面接で有利だぞ」
「それまでには、黒に戻すって」
ミグは黒いタートルネックの体にフィットするセーターと少しタイトなスパッツに着替えると、軽々とソファを乗り越えてリッセンの隣に座った。そのまま右手で仕草をして、ホステトラー家の頭痛の種であるベイスターズ戦から最近彼女が恋焦がれるロックスターのビデオへとチャンネルを変えた。
リッセンはイライラしたように言う。「何だ、せっかく見てたのに・・・」
「8回裏で14−2じゃ、終わったようなもんじゃない」
「野球は最後の最後まで分からん!」
「じゃ、ゲームが終わる頃には20−2ね」
リッセンは負けを観念した。アスレチックスにではなく、ミグに。振り払うように首を振ると、台所をちらりと見やる。
「お夕食なら、手配したわよ」
「そうか」
「お風呂?」
「ああ」
文字通りリビングを占領されたリッセンが、進駐軍にソファを明け渡そうとした。
「お母さま、まだ、仕事?」
「戦争らしいからな」溜息と共に、リッセンはうなずく。
「大丈夫なのかしら」
「何が」
「全部」
「大丈夫だ。何もかも、大丈夫だ。安心しろ」
リッセンは”お前らしくもない”と言いたげにミグの肩を軽く叩くと、風呂場へと向かっていった。ビデオでは、ヒット曲「僕が祈る永遠」を流し始めた。これよ、これ。これが好きなの。しかし、何となくいまは、目の前のビデオに熱中できなかった。ミグの鋭利な頭脳は、今回の事態も「戦争による権力維持」の線が強いと思ってはいた。鎮圧できる規模の叛乱を敢えて起こし、それを鎮圧することで統治するための権力を増強するのが狙いだと。
それでも、大統領自らが演説の中で人的資源保全プロジェクトの停止を宣言する理由を図りかねていた。”人的資源保全プロジェクト”。このプロジェクトによって、地球や宇宙コロニー群の食料プラント、開発星系の農業生産で賄い切れない食糧からあぶれた七十億人以上の人間が長期間のコールドスリープを続けていた、いつか来る食糧自給の日を夢見て。はるか三百年近く前のビッグマザー陛下親政時代から営々と続けられてきたのが、この巨大なプロジェクトなのだ。この事業の停止は、言うまでもなく地球連邦の存在意義が揺らぐことを意味する。
しかも、大統領はビッグマザー陛下自らが、プロジェクトの停止を宣託されたという。本当だろうか。確かに、ビッグマザーの機構はミグの知識からしても時代遅れの産物だ。元々の設計がいくら優秀であったとしても、いかに進歩した技術をビッグマザーに繋ぎ合わせたとしても、七世紀も前の巨大集積コンピューターがその性能を時代の進歩に対応し続けられるはずがない。ビッグマザーは、狂ってしまったのだろうか。それとも。
実際、ビッグマザー陛下親政時代を歴史の中でしか知らない国民の大多数は、その貧困に喘ぐ理由をビッグマザーにあるものと考え、”鉄くずばばあ”をスクラップにしろだとか、地球連邦の象徴としての座は不要だとかいうデモをやっているし、地球では不満分子がクラッカーの協力を得て警備を突破し、ビッグマザーのコンソールルームを銃撃、爆破するというテロまで発生した。その場でテロ部隊全員が殺害され、ビッグマザーも一時期機能不全を起こしていたと伝えられたが、どこまで本当の話が伝わっているのかは杳として知れない。
気になる。
父親から奪ったチャンネルを自在に操る権力を誇るミグは、ビデオを止め、ソファの上でひざを抱えた。髪の毛をかきあげながら、じっと、考えるが、まとまらない。ああ、お母さま、帰ってきて。ミグはそう思わずにはいられない。彼女の母親であるシンシアは、ニューメンフィス市長であるハガァー氏の首席秘書官という超エリートであった。下級官吏のリッセンとは、大学時代の同級生だったそうだが、出来の悪いリッセンをずっと面倒みてきて、放っておけないという理由で結婚して、できたのがミグだそうだ。お母さまなら、いまの事態を正確に知っているかも知れない。いまからテレコミュニケーションしてみようかしら、と思ったが、仕事中かもと思うと踏み切れない。髪をかき上げる力が強くなる。いまのあたしにできること・・・、何か・・・そんなミグの集中力は一声でかき消された。
「おーい、ミグ、エアータオルのスイッチってどう入れるんだったかな?」
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