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『母なる地球を離れて遥か百六十光年、私たちはついに新たなる大地にたどり着いた。新たな太陽は暗く、新たな大地は金属に覆われ、私たちを包む大気は水素と二酸化炭素に満ち、生命を育む海もなければ硫酸の雨は凍てついた地表を焦がす。人類の輝かしい第一歩がいかな苦難を私たちに負わせるものだったとしても、私は全知全霊を尽くしてこの惑星を生命の溢れる希望の地にしてみせる』
宇宙世紀 1年 11月 10日 スティーブン・ハイアットの日記より
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「やれやれ、酷い目に遭ったぜ」
屈辱的な体験をした俺たちは、げっそりとした表情で第四階層の一般居住区にあるるなの自室まで戻ってきた。玉砕ならともかく、あれは人為的災害だ。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ、そんな謝らなくても。第一、あんなものは事故だ。人災に近い」
るなは、極端に怯えたように俺を見ている。俺はそんな怖い人じゃあないんだがなあ。そう思いつつ、部屋の端っこに置いてあったクッションを手に取ると、それを枕に寝転んだ。るなは部屋の端っこにちょこんと座っている。横になって思うのだが、体に塗ったクリームとホログラムの服ということは、実際には裸同然ということだ。外界と肌をさえぎるものは何もない。歩いても横になっても、股間の袋が前後左右に自由に動き回ってしまい、まことに締まりがないので思ったほど快適ではない。慣れればそれで済むのかも知れないが。
俺は明日にはコロニーに行かなければならないことを、ふと思い出した。しかし、さっきのいかつい大統領がいうには、既に政府がコロニーに戦争を仕掛けたはずだ。果たしてこれはいったいどういうことなのだろうか。
「なあ、全然話は違うんだけどさ」
「はい。何でしょう」
「俺ってば明日にもコロニーとやらに行くんだろ。リッセンっつーおっさんに会いに」
「そうですね」
「でも、戦争があるってことは、予定が変更になったりしないの?」
俺が淡い期待を抱いている内容というのは、延期なり中止なりになって、もうしばらくるなと一緒に生活できればいいなということである。生き返ったはいいものの、見も知らぬ未来社会に放り出されて何をしたらいいのかさえ分からないというのもあったが、いま俺が一人にさせられたら過去と真正面に向き合わざるを得ない。事故を起こした。理沙を死なせた。俺も死んだからといって、それが埋め合わせになろうはずもない。いずれ整理をつけなければならなくなるとはいえ、まだ心の準備ができていないのだ。
「ちょっと、聞いてみますね」
「うん。頼むよ」
るなは何かしぐさをすると、小さなスクリーンを出して何やら操作している。
「あの、計画に変更はなく、明日の0800に軌道エレベーターホールまで来るように、とのことです」
「何? 軌道エレベーター?」
「はい、199年東京に設置された一般的な公共施設で、宇宙ステーションまでシャトルが二十分おきに運行されていて、これを使って・・・」
「いや、そんなことはいい。実際に目で見て一つひとつびっくりしておくから。それじゃ俺は明日言われた通りコロニーにいくわけか」
「そうですね・・・」
心なしか、るなは寂しそうにスクリーンを覗いている。俺はむっくり起き上がると、床の上にあぐらをかいた。
「でも、るなちゃんにはお世話になっちゃったな」
「ううん、そんなこと、ないです」るなはスクリーンから目を離し、少しこちらを見るとそのままうつむいてしまった。
「いまの俺じゃ、何のお礼も出来ないけどな」
「でも、今日一日、とっても楽しかった、です」
「そんな、今生の別れみたいなこと、言うなよ」
俺は笑った。だが、るなの表情は相変わらず硬いままだ。
「なあ、どしたの?」
「今日も、一日が、終わってしまいますね・・・」
「うむ。俺様復活の日が、過ぎてってしまうわけだ」
「・・・」
「・・・」
何か、気まずい。この狭い部屋を無限の静寂が俺たちを包み込むように鎮座している。俺はいったい、どうするべきなのだろう。
「ねえ、宮本さん」るながその静けさを破った。
「うん?」
「理沙さんって、どんな人だったの」
意外な質問に、俺は狼狽した。「うーん、何というかな」
「かわいい人? やさしい人?」
「えっとな」
「はい」
「思い出したくない」
「・・・」
俺にはひとつの可能性を感じていた。この俺が何の因果か千年の時を越えて掘り出されてこうして復活し、五体満足で座っているということは、ある一定の確率で、理沙もこの世のどこかで新しい生を授かって暮らしているかも知れないわけだ。ぼんやりとそう思うだけでも、少しは気が楽になるだろうか。
「教えて欲しいの」
「何で・・・何でだよ」
「今日の最後に、どうしても、宮本さんのこと知りたいの」
「俺?」
「宮本さんのことも、宮本さんが、あなたが、好きだった人のことも・・・」
るなは、思いつめたような目で俺を見詰めている。つい、視線を外した。
「やさしい、女だったよ」
「・・・」
「それも、底抜けに、何というかな、限りない愛情でできたような女だったよ」
「うん・・・」
「俺にだけじゃなくて、誰に対しても、心の中からやさしかった。あんまりにもやさしいもんだから、毎日、そう、毎日、他の奴にとられやしないかと心配だったぐらいさ。そいで・・・」
「それで?」
「強かった。心が。俺さ、自分でも悲しくなるぐらいへなちょこな男だったんだけど、何か折れてしまいそうになっても、そばにいてくれて、不思議と・・・」
まずい。目が潤んできた。それも、凄い勢いで。女の前だぞ、恥ずかしいぜ。幸司、ここはぐっと我慢だ、漢なら。るなに見られないように顔を伏せてみた。
「不思議と、力が湧いてきた。湧いたような気がする」
「うん」
「でもな、ことがうまく運んで、何とかなって、ありがとうって言っても、それが本来の力なのよって・・・」
「好きだったんですね」
「・・・ああ、好きだった。あいつのためなら、何でもしてやろうと思って・・・」
何だか頭の中の熱くて湿っぽいものが、俺の鼻の中へ流れてきたような気がする。これじゃあ涙声じゃないか。すっげー照れくさい、と思いつつも、頭の中が真っ白になってきた。いかん、もう何も、考えられない。
この数時間、触らないようにしていたものが掘り返され、こみ上げるような情感となって頭を揺さぶる。必死に避けてきたものが、るなの何気ない質問によって目の前につきつけられ、うろたえるしかない自分の気持ちすらも正確に把握できなくなってしまっていた。心臓が、意思とは無関係の鼓動を打ち始め、息すらもうまく調整できなくなって、何とか言葉をひねり出そうとした。
「殺したんだよ・・・」
「・・・」
「俺が、この俺が、理沙を殺したんだよ!」
「幸司さん!」
「俺が、あいつの未来を、やさしさを、奪っちまったんだよ!」
「ごめんなさい、幸司さん! 落ち着いてっ」
拳で、床を強く、何度も、殴りつけた。もう、全く痛みを感じない。その手の甲に、あごから落ちた何かが数滴したたって、ちょっとした模様を作った。頭のまん中で起きた震えが、肩を、そして全身を覆っていく。まるで自分が自分でないように、抑え切れない衝動が突き抜ける。復活してからの数時間、一番恐れていた記憶が、感情の濁流になって支配していった。
「俺だけ、俺だけ死んでりゃ何の問題も無かったんだよ! 何故、どうして、こうなってしまったってんだ!」
後悔、というものが辞書通りの意味で口からとめどなく流れ出てくる。もちろん死にたくはなかった。だがせめて願いが通じるならば、理沙には、理沙にだけは、こんな結果になって欲しくなかった。るなが『理沙さんも・・・』と言った時、ぼんやりと聞き流していたものが、時間と共に暗くて深い悔いの闇となって、わずかに残った理性を飲み込んでいた。息が苦しい。再び生を享けることが、自分に対する罰なのではないかと思えるようになってきた。
「幸司さん」
ふと目を上げると、いつのまにか、るなが近くに来ていて、その小さい手で右腕を掴んだ。その感覚が、すうっとした風となって身体に流れ込み、少しだけ、切れた暗雲からのぞく薄日のように心を照らした。
「わたし、ちょっとだけ、安心した」
「・・・」
「幸司さん、無理してた」
「・・・そうかもな」
「もっと、正直になっていいの」
たぶんぐしゃぐしゃになっているだろう顔をるなに見せまいと、腕で顔を拭うと、何故だかかえって妙に冷静になってきた。
「変なとこ、見せちゃったな」
「ううん」
「いや、ごめんよ。どうしちゃったんだろうな、俺」
「少し、張ってたものが取れただけ。それだけ」
「正直、理沙に合わせる顔がない」
「・・・」
「あいつ、もしだよ、もしいまのこの社会で生き返ってて、何かの拍子で再会して・・・、そんな状況でも、絶対、怒らないだろうな」
思わず、懐かしい記憶を引っ張り出し、その余韻に浸っていた。毎日連絡を取りたいけどなかなか親から携帯電話を買う許可を理沙が貰えないので、理沙の家に毎晩電話して長電話して理沙の親に怒られたこと。デートの帰り道、別れたくないので電車を降り損ねて終点まで行ってしまってベンチで一時間も始発電車を待ったこと。誕生日にくれた手編みの帽子が小さくて頭に入らないから部屋に画鋲でとめていたこと。何もかもが、昨日のことのように思える。
「きっと、これからも」るなの声で現実に引き戻された。「これからも、同じことがあると思うの」
「ああ。忘れようと思ったって、忘れられるもんじゃあないな」
「うん。だけど、自分を責めないで」
「どうかな」
「でも、理沙さんのために、思い切り、泣いてあげて。それが、一番いいと思うの」
「今度泣く時は、誰にも迷惑かけないように、一人で泣くことにするよ」
るなは、くすっと笑った。さっきまで俺を襲っていた悪夢のような感情は嘘のように消え去って、この何時間かで一番気分が穏やかになった気がする。
「とりあえず、ありがとうって言っておくよ」
「ううん、いいの」
「るなには借りばっかりになっちまったな」
「わたし、今日は、ほんとに嬉しかった」
「そうかい?」
「ほんとに・・・」
るなは、またふっと暗くせつない表情に戻ってしまった。ちょうど、店の前で見せたような、わずか十センチもない距離で寄り添っていながら物凄く遠くにいってしまうような、そんな顔を、るなはたまに見せる。何故だろう。
「なあ」
「はい」
「ありがとうのついでに聞くのも何だけどさ、るなって親とか兄弟とかいるの?」
「え・・・何故そんなこと聞くの」
「いや、こんな都会の真ん中で、一人暮らしで寂しくないのかなって」
「・・・」
「この際だから、正直に言うよ。これから俺はどっか行くんだろうけど、心細い。誰も友だちがいない」
「・・・友だち?」
「うん。友だち。どんな遠くたって、電話でも手紙でもメールでも、届くんだろ」
「わたし・・・」るなは押し黙ってしまった。
「なあ、俺の友だちになって欲しいんだ。わけも分からず未来に放り出されて、知り合いなんかいるわきゃない。頼むよ」
るなは放心したように、じっと床を見詰めたまま固まっている。別に何かしようというわけじゃない、たださっきるなが俺にそうしたように、るなの左上腕をそっと掴んだ。
「!?」
「あっ」
腕を掴んだ時に感じたそれは、柔らかい女性の二の腕の弾力ではなく、じっとりと、ぬるっとした、ゼリーのような感覚だった。るなは上体を反らしてのけぞり、俺も思わず掴んだ手を放した。
「・・・」
「・・・」
二人して、思わず見詰め合った。お互い、何が起きているのか分からない呆然とした表情で。俺はどう反応するべきなんだろう。るなもその大きく見開いた瞳で同じ心境にあることを物語っている。
「君は・・・」何とか、押し出すように声をかけた。が、次に繋ぐべき言葉が見つからない。今日何度かあった、しばしの静寂。
「わたし」るなは俺から目を離した。「わたし、忘れてしまうの」
「・・・」
「昔のことも、今日のことも、あなたのことも、全部消されてしまうの」
ポーンという音と共に、日付が変わったことをコンソールは告げる。
「あなたが人として生まれ、生まれ変わっても人であり続けるように・・・わたしは、わたしの宿命があるの」
「宿命? どういうことなのか理解できない」
「わたしは、毎日、同じ一日を送るの。指示を受けて、そう、毎日、同じ一日を。わたしがわたしである限り、これからも、ずっと」
「おい待て。いくらなんでも、昨日と同じ今日や明日なんてあるわけがないだろう。いま、こうして俺と向かい合って、俺を慰めてくれて、おしゃべりをして笑ってたし、街にだって遊びに出たじゃないか」
「とっても、楽しかった・・・」るなは、再び寂しそうな目で俺を見詰める。
「そうだ、楽しかったろ。明日はもっと楽しいはずだ。昨日も今日も明日も変わらないなんて、そんなバカな話があるのかよ。そんなんじゃ夢も希望もない」
「うん。夢も希望ももたない。それが、人工生体(ドロイド)の宿命・・・」
「ドロイド?」
「人の感情と、機械の記憶や身体を持つ存在、それが、わたし」
「・・・」
「プログラムでは実現できない、人の感情の機微を感じ取る。でも、人じゃない。わたしは、人じゃないの」
「何でだ。人の心を持っているのなら、それは立派な人だ。人格だ。バカげた話だ。その人の記憶を消し去るなんて、そんなことしていいはずがねえだろう」
また血圧が上がってきた。上がったり下がったり俺もご苦労なことだ。だが、バカな話はどう捻じ曲げたって、バカなことだ。今度ばかりは、腹の底から頭にきた。
「興奮しないで。これは決められたことなの。わたしたちでは、どうしようもないの」
「何だそれは。誰が、いつ、どう決めたんだ」
「・・・ビッグマザー陛下」
あの戦争を仕掛けやがった鉄くずのことか。許せねえ。
「あなたはとってもいい人。ほんとに、いい人。・・・どうしたのかしら、わたし。こんなことを話してしまって」
「おう、いい人だとも。そんないい人であるこの俺が怒るんだ、普通じゃないってことだそれは」
「お願いだから、怒らないで。わたしなんかのために、怒らないで」
「そうなったからには、何か合理的な理由があるはずだ」
「そう。合理的な理由が、あるの」
「どんなわけがあんだ」
「わたしたちの精神はね、人間に比べて、とっても不安定なの。構造も、機能も」
「・・・」
「ビッグマザー陛下は、わたしたちが不安定な存在だということに気づいておられた。人が、生きていくって、大変なことなんだもの。とっても、大変なことなの。不安、恐れ、不満、嫉妬、怒り、悲しみ、いろんなことを感じるでしょう」
「ああ、感じているだろうな」
「そういう辛い出来事に比べて、楽しいことって、ほんのわずかなのね。人は、さっきのあなたのように、悲しんで、泣いて、叫んで、少しでも忘れることができる。でもわたしたちには、自然とはそれができないの」
「機械の記憶、だからか」
「そう。すべての記憶がリンクしてしまう。人は、実は完全に忘れ去ることはできないんだけど、楽しい時は楽しいことに集中できる・・・でも、わたしたちには」るなは首を振る。何かを取り払うかのように。
「なるほどな。るなが、ドロイドが、人のように生きていたら、記憶は嫌なことだらけになっちまうってことだ」
俺も、理沙のことを忘れようと頑張った。俺にとって、一番辛い記憶だからだ。忘れ去ることはできないしするつもりもないとしても、そこから幸せや楽しみを積み重ねることによって、罪悪感は少しでも薄れるのかも知れない。だが、るなは、彼女たちは違う。一番辛い出来事は、ずっと辛い思いを引きずったままで、暮らしていかなければならないのだ。
「わたしたちは、心の傷を癒すことができない。だから・・・」
「分かった。分かったよ。だけど、ひとつだけ言っておく」
「・・・はい」
「いつか、お前を人にしてやる」
「えっ」
「人にするために、戻ってきてやる」
「・・・」
「これで、俺が生きる価値ってのが見つかったかな」
「幸司さん・・・」
「だから、今日のことは忘れないでくれ。お前の頭の中にある、機械の記憶とかいうのが消されるのは、よく分かった。だったら、ブログでも日記帳でもいいから、どっかに今日のことを書き止めておいてくれ。それなら、絶対に消えない」
「えっ、でも・・・」
「友だちなんだから、そのぐらいのことはできるだろ」
一瞬の間があった。俺の思いは、通じているのだろうか。
「・・・うん」るなは、嬉しそうに笑った。
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朝は、普通に訪れた。
クッションを枕に、床で寝ていた俺は、ちょっとした尿意で自然と目が覚めた。首だけ起こしてあたりを見回すと、ベッドで寝ていたるなはもう起き出してコンソールで何かの作業をしている。軽く伸びをすると、るなが俺の起床に気づいたようだ。
「宮本さん、おはようございます」るなは、微笑みながら挨拶をした。まるで、初めて会った時のように。
「いま何時?」身体を起こしながら尋ねた。
「もうすぐ、0700ですね。ちょうど起こして差し上げようかと思ってたところなんですよ」
「そうか。それにしても、よく寝た」
昨夜のこと、日記に書いたか、と聞こうとして、やめた。腹の虫が声高に抗議する音に機先を制されたからである。
「朝食に行きましょうか」
「ああ、そうしよう。そろそろ食事に慣れておかないとな・・・」
今日はコロニーへと旅立つんだった。支度のひとつもしないと、という気になったが、よく考えたら俺は身一つなのだった。何とも旅風情のない話だ。るなはコンソールを閉じて立ち上がった。
「それじゃ行きましょう」とるなは俺を促した。
「あ、ちょっと待った」
「はい」
「トイレどこよ?」
トイレは未来になってもたいした代わり映えはしなかった。想像していたよりも激しい放尿を完遂した俺は、手洗いのところにきて、鏡に映った自分の顔にピエロのようにくっきりとした涙の跡を発見して愕然とした。
「一言言ってくれりゃいいのに・・・」
と独り言を言ったはいいが、操作の仕方が不明だ。どうやって水が出るのかさえ分からない。ボタンらしきものも見当たらない。秒速で途方に暮れた俺は、あたりを見回すと突然上から袋のようなものを被せられた。完全な暗闇だ。と思うと、ブオーという風を顔面いっぱいに感じ、ものの数秒で洗顔され、髭剃りされ、散髪され、整髪されていた。呆気に取られるほかなかった。
出口でるなは待っていた。
「うん、そんな感じです」るなは、散髪の結果に満足そうだ。
「いや、驚いた」
「それよか、手を洗いそびれたんだが」
「鏡に手をかざすと洗えます」
「それを先に言ってくれ」
およそ一キロ四方はありそうな広々とした軌道エレベーターの離発着駅には、宇宙ステーションに向かう人でごった返していた。一面のクリーム色の床は、ところどころ自動通路になっているらしく、人々を決まった方向へと送り出していく。どうやら第三階層あたりにあるらしいのだが、さすがにこれから宇宙へ向かうゲートだけあって、吹き抜けの天井からは窓枠に切り取られた青空がのぞいている。
一般用と書かれたチケット売り場らしき窓口に向かって人が流れ、別れを惜しむ家族らしき人たちや、大きな荷物を重そうに引きずる女性、奥のベンチには酒盛りをしている集団もいて、みな思い思いに地球を離れる時を待っているようだった。
「宮本さん、こっちです」
るなが「特別」と書かれた窓口を指差すと、そこだけくっきりと人がいないスペースがあり、いかにも特別です、と言いたげな存在感を示していた。「特別」ゲートの入り口には、いかつい装甲を身にまとったガードのような男が二人、両脇に控え、下賤の者の立ち入り禁止という無言の主張をしていた。
るなは、とっとっと軽やかな歩調でゲートに近づいていく。俺は金魚の糞よろしくその後ろをついていくだけなのだが、何となく不安になってきた。
「なあ、そのまま入っちゃっていいのか?」
「大丈夫ですよー。あ、目はちゃんと開けていてくださいね」
「そんな。プールの飛び込みじゃあるまいし」
ガードは特に入るのを咎める様子もなく、拍子抜けなほどあっさりとゲートの中へるなと俺を通した。その先にある行き止まりがオレンジ色の停止スペースとなっていたらしく、俺たちがそこで立ち止まるとすっと斜め上方にあるらしい軌道エレベーターのロビーへと運んでいく。
「今日は放射線も少ないみたいで良かったですね」
「そうなのか? よく分からんが」
「ここから先は、プラットフォームへ続くロビーになっています」
「なるほど。ロビーからプラットフォームに乗って、そこから軌道エレベーターに乗りかえるわけか」
「ロビーで、わたしとはお別れです。宇宙ステーションに着いたら、同じような特別窓口が、いま通ったところみたいにありますので、そこに入っていってくださいね」
「なあ、何もチケットとかないけど、大丈夫なのか」
「はい、宮本さんの網膜パターンで個体識別されているので、平気です」
時代は進むものだ。が、いま通った場所で特にこれといったチェックをされたという雰囲気もない。ということは、個体反応がいつ、どこで為されていても、俺は気づくことはないということだ。これでは迂闊に悪いこともできないな。
ロビーには、それほど人もいない。およそ三百席はあろうかと思われるベンチが並んでいて、その半数以上は座るべき主人もいないまま、その背もたれを空に向けてたたずんでいる。ここで、るなともお別れか。わずか一日だったけど、とても長く感じた。ずっと一緒に暮らしていたかのようだった。軌道エレベーターに乗るためのプラットフォームの扉はまだ閉ざされていて、数人の係員らしき人間が、何か作業をしていた。
手近なベンチに座ると、俺たちは無言のまま二人で並んで座った。
『まもなく、5番ホームに宇宙ステーション行きエレベーターが到着します。ご利用のお客様は、搭乗用プラットフォームへとお進みください。繰り返します・・・』機械的な女性のアナウンス音が、ロビーにこだまする。
「もう来たのか」
「はい、ちょうど間に合うように出ましたから」るなは、澄まして答えた。
「さっ、行きましょう、宮本さん」
個人的には、名残惜しくてそわそわしてしまうのだが、るなは平然としたものだ。俺もぼちぼち立ち上がると、ベンチに座っていた周囲の客もおもむろに乗り込むためにプラットフォームへと向かい始めた。プラットフォームの前には、百人ほどの行列ができ、俺たちはその最後尾に並んだ。
「宮本さん」るなは歩きながら、涼しげな目線を俺に向ける。
「うん?」
「お気をつけて」
「ああ、ありがとう。るなも、元気でな」俺は、精一杯の明るい声で応えた。
「はい」
プラットフォーム乗り込み口周辺は人が集まって騒々しいのだろうが、不思議と俺の耳には聞こえてこなかった。地球を離れるということ、るなと別れるということの重みが、ようやく実感となって俺の中に湧き上がってきているのかも知れない。
生まれて初めて、大学を受けるために飛行機に乗った時を思い出した。秋田空港から、羽田まで。クラスの中でもとびきりの落ちこぼれで、卒業も危ういと思われていた俺だったが、親父の「お前は一度東京を見て来い」という一言で、東京の大学を志願するはめになった。もちろん、現役ではどこにも受からなかった。
飛行機に乗る瞬間、飛行機の飛び立つ時の興奮、まあいろいろあった。見送りが一人もいなかった分、気楽ではあった。でも、今回は重みが違いすぎる。ひょっとしたら帰ってこられないかも知れないし、そもそも帰るべき家も、待っている人もいない。るなを除いて。
「るな」
「はい」
「昨夜の約束、覚えてるか」
「はい? 何ですか」るなは、小首をかしげる。
「いや、何でもない」
列の前の方から、プラットフォームへと人が吸い込まれていく。半歩づつ、別れの時間が近づいてくる。
「なあ、るな」
「はい・・・」るなは俺を見上げる。
「全部、覚えているんだろう、本当は」
「えっ・・・」
「俺が、るなの部屋に上がった時。お前は確かに『自室に男の人お呼びしたの、初めて』だと言った」
るなが、立ち止まる。二人の距離が、広がっていく。俺はホームに向かうタラップに足をかけ、首だけ振り返り「じゃあな」と言った。るなは、無言で、しかし小さな右手のひらをいっぱいに広げて、軽く左右に振っていた。
『プラットフォームのドアが閉まります。ご注意ください』
ドアが、二人の視線を遮るように閉まると、プラットフォームは軌道エレベーターへと移動を始める。るなは、力なく振っていた右手を降ろした。
「わたし、幸司さんなら、きっと・・・」
だんだん遠ざかってゆくプラットフォームを追うるなの目から溢れた涙が、一筋の光となって、るなの頬を流れ落ちていった。
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